聖餐

魔術家、巫女、或いは女学生の神経回路

Facebookもやめます

Facebookもアカウントを停止します。

たこれにより、DEVIL's PLAYのOfficial Facebookページも停止となります。応援してくださった皆様、誠にありがとうございました。

ご不便をおかけし大変申し訳御座いません。よろしくお願い致します。

Messengerで連絡を取っている方にはご案内をお送りしておりますが、今後の牟礼菊乃へのご連絡は携帯電話番号・Gmail・LINE・個人用Skype、DEVIL's PLAYへのご連絡はHPメールフォーム・Twitter DM・セッション用Skype となります。

 

kikuno-mure.hatenablog.com

 

Facebookをもやめた3つの理由 → 不健康・価値の体系・プレゼンス

 

①不健康

人間の脳は無限の可能性を秘めていますが、一生のうちに実際使うのは全体の数十%だそうです。肉体的・精神的成長につれて多少の拡張がなされていくとはいえ、顕在意識のキャパシティは常に “今ここのもの” が精一杯であり、それに見合った機能運転がなされてこそ正常=健康 といえます。さらに言えば、正常運転のためには 行き届いた清掃と歯車がぶつからないようにするための余白が必要 です。

6月に TwitterinstagramTumblr をやめた際は それで充分だったのですが、Facebook一本になったら、そこに辞めた3つ分のウェイトが偏ってしまったのか、実はFacebookこそが一番のウェイトだったのか、どんどんつらくなってきました。

更新することも「ブログ(これ)書いた」程度。SNSを利用してのSNS誘導って経路としてむしろ複雑化していないか? 明快さが足りないな? という不明瞭感も否めず。

DEVIL's PLAYについても、開始1か月で見えてきた方向性として、今のDEVIL's PLAYに必要以上の広告はいらないと判断しました。まだまだ進化の過程にある今であれば、別にFacebokページがなくなったとて大してダメージはないのではないか? Facebookだけが唯一の発信ツールがないし、Twitterbotに任せきりだけど一応あるし、そもそも大元のWebサイトを怠らずやっているならば、今はそれで充分ではないか? と。これはもちろん商業性やブランディング、DEVIL's PLAYを訪れてくださった人々を見て慎重に判断した結果です。

時系列も表示される人もバラバラ、関心が湧かない投稿と広告ばかりが羅列し、美しさを感じません。これならまだ構造そのものが簡易的なTwitterの方がいいとさえ思えます。あとこれは完全にDisですが「共通の友達」「知り合いかも」「誰が何にいいねしました」「何時間前にオンライン」のシステムがどうしても好きになれませんでした。

他にも言葉の重みとか、リソースの無駄遣いとか、第三の眼が眼精疲労とか色々。実は私は小さい頃から第三の眼をガン開きしちゃう癖があるんです。あれもちゃんと眼精疲労起こすんですよ。普通の眼球より厄介ですけど。

ここまで 現代社会でメジャーとなっている人間交流ツールに辟易してしまうと いつしか人自体も嫌いになってしまいそうで....... というかなりかけつつある......

とにかく本質的に楽しくなくなったわけです。疲れた、というのが本音です。

 

②価値の体系

8月末からとある地元の立ち飲み屋に通いだしました。きっかけはひょんなことだったのですが、自分が思ってもみなかったような成長や出会いがたくさんあり、今やすっかりレギュラー(?)メンバー。

基本的に皆20歳以上年上で なかにはもうお仕事を引退されている方もいらっしゃいます。美術家、デザイナー、写真家、舞台役者、文筆業、日本が一番元気だった頃を肌身で知るトップクラスの文化人たちが集います。だからといって何も肩肘を張る必要はなく、暖簾をくぐったら皆平等。その根底にあるものは誠意と敬意と人間性です。私はきっとこれに育ててもらったのでしょう。

そんな素敵な人たちと最低週1回、多い時には週4回もお酒を飲んでいればそりゃ人間も変わるわけです。どう変わったかというと、自分で言うのもなんですが 自分に自信が持てました。そのおかげでDEVIL's PLAYが生まれたと言っても過言ではありません。そして何よりコミュ症が完治しました。というかそもそも私はコミュ症ではなかったらしく、自分に自信を持てない私が自分をコミュ症だと決めつけていただけみたいです。まぁそれはそれでいいんじゃねって思うんですけど。

本を捨てたことで世界の価値が変わり、人と交わることで自分の価値が変わりました。

 

③プレゼンス

世界の価値と自分の価値が大きく変わった今、世界と私を結ぶものを改めて考えみると、どう頑張ってもFacebookは絶対必要とは判断できませんでした。

まず自分のキャラクター(商業っぽく言うところのブランディング)にSNSはいらないし合わない。単純なアイドル性とかいらない。全体的に「会いに来たい人だけが会いに来る ちょっとよく分かんない人」くらいがちょうど良い。本来 私ってそういう人でしたし。

そして何より、写真も絵も踊りも文章表現も好きですが、それをいちいち半永久的な電子世界に残し、有り余る人の輪のなかで共有し、真意の捉えられない賛美を確かめ、可視的に記憶がアーカイブされていくことに意味が感じられなくなりました

そもそも記憶って忘れていくもので、忘れていくからこそ忘れたくないことが残るようにできています。それでも人は時に忘れたくないことまで忘れてしまうから、別の身体/物体に留めておこうと、人をつくり、言葉をつくり、文字をつくり、あるいは継承される技術のなかに 残す努力をしてきました。

本来『残す』という行為には 莫大なリソースが割かれます。しかし今はどうでしょう、指先ひとつで簡単に文字も写真も残せるようになりました。そのせいか世の中には、モラルの欠如、迷走、いっときの感情で書き綴った言葉による人間関係の不和が溢れかえっています。心当たりはありませんか? 極端な表現ですが、吐き捨てになったアーカイブを美しいと言えるでしょうか

 

最後に一つ。世の中SNSが消えたって人のご縁は続きます

もちろんこのブログも続きます。

今後とも牟礼菊乃をどうぞよろしくお願い致します。

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