聖餐

魔術家、巫女、或いは女学生の神経回路

沈黙

文学を学びつつ 人にものを伝える仕事をしていると、時々 言語そのものはもちろん言語を持ってしまった人間の価値すら分からなくなってくる。身体にも精神にも疑問ばかりが浮かび、メルロ=ポンティに問えば、生命に立ち還れと諭された。

身体にも精神にも偏らない、生命という概念。

唯美的とすら思う。

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そこを起点に色々考えると、いくら身体や精神の醜さを厭うたとて、誰かと話して嬉しくなったり、人から頂いた本を読んで楽しくなったりすると “生命” の震える感じを覚える。

これこそが、精神と肉体を結ぶ “言語” をやめられない一番の理由かもしれない。

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神々は 叡智を以てして生命の美を極めたがゆえに、固有の身体や精神、そしてその個々を結ぶ言語すらも必要とせず、ただ尊くそこに在れるのだろう。

未だ “固有” だの “個性” だのに捉われる人間が人間のなかに見出す尊さなんてこれっぽちのものだ。しかしそのこれっぽちが大いに生命を震わせ、精神の悦びとなり、身体は神を見るべく天を仰ぐのだから、まぁ人間とはつくづく可哀らしい生き物である。

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どんなに喧しく騒々しい一日を送ろうが、祈るように眠るまどろみの中で、ほんの少しでも唯美に極んだ神らしき光を覗けたのなら、きっと私たちは充分に幸せだ。