瞼裏の光

何かの際に手を組んで「神様」と祈るとき、心の片隅で「神様ってだれだろう」と思う感覚は宗教的体験をしたことがある人にはよく分かるかもしれない。

f:id:kikuno_mure:20170930120313j:image

幼い頃に朝礼拝のなかで見出した祈りの本質とメカニズムをまとめると、

①祈り=自分との対話を「神」という存在を目の前に置くことによってスムーズに行う

②神への祈り=整頓された自分との対話/暗示

③理想像はただ一つ→ 一神教
 様々な自分を愛せ→ 多神教

6歳にしてはませすぎて自分でも気持ち悪いが今でもこの理論はあまり変わっておらず、むしろ①は年を重ねるごとに強化されている。

人は祈りを通して自らに眼差しを向ける。目を閉じて何かを想う空間、想っていたことが段々とやわらかく溶け出し、空間と皮膚の境目が曖昧になり神と一体となる。神との一体感を強めるために、人はときに天を仰いで舞ったり、他者と声を揃えたり、食をやめて感覚を尖らせる。

「今日も私達をここまでお導き下さりありがとうございます」「私達は貴方によって生かされています」

・少年「試験が合格しますように」
 →試験が合格するために自分を仕向けることがスムーズにいきますように
・母 「息子の試験が合格しますように」
 →息子が試験が合格するために自分を仕向けることができますように(最適な手伝い方をし
  てあげるべく自分を仕向けられますように)

 f:id:kikuno_mure:20170930120439j:image

ある時代、偶然同時多発的に自分の中の"神らしき誰か"に気付いた人々が、日常の情報共有の中でふとその存在を認識し目覚め神と定め祈り始めた。その中で特にカリスマ性のあった者が物語った神が人々を目覚めさせ傘下につき、宗教が生まれた。多分。

神は普遍、物質や偶像で表せる存在ではない。預言者はあくまで神と人を繋ぐ “人” であり、預言者と共に神への信仰を深めてゆくイスラームキリスト教などとは反対に、大量の祠や仏像と触れ合い(洗う、撫でるなど)また太古から太子・祖師信仰が得意な日本の信仰観は非常に物質的だ。付喪神、身代わり人形やお守りなんかが良い例で、物質に心を見出し、得たり手放したりすることで信仰を表す。神がそこにいる、という確信を得るプロセスの違いはその国の人のアイデンティティを顕著に物語る。

f:id:kikuno_mure:20170930120938j:image

何にしろ、だ。

この世には、知性や言語で語れない信もある。それこそが最も美しい真の信かもしれない。