聖餐

魔術家、巫女、或いは女学生の神経回路

燈之 陰尓蚊蛾欲布

2017年10月20日天秤座新月、谷崎榴美女史率いる 現代縄文魔女術実践グループ UPHYCA - Modern Jomonian Witchcraft に参入しました。

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巫女名は玲瓏(Ray)。火の巫女として活動する際はこちらを名乗ります。

参入試験、個人的な参入儀式と最初の試練を終え、早くも次の段階に進みました。

 

17歳の頃参入を検討するも 未成年+魔術的体験が未熟なことから一旦保留に。18歳の10月 別ルートで本格的に魔術に参画しだしてからは、毛色の違いから「もうUPHYCAには入らないだろうな」となんとなく感じていましたが、かくかくしかじかでいざ入ってみると「ああ、私は今ここに入るべくして入ったのだろうな」と思うほど、UPHYCAの信念やプラクティスは凄まじい体験を諭してくれています。

 

私は未だに 魔術と魔女術 の違いを解っておらず、とくに知ろうとしませんでした。そもそも魔術には “性の超越” 的なものを求めていたので わざわざ魔 “女” 術と付くことが どうもしっくりこなかった、というのが正直なところです。また幼少〜思春期の個人的体験から女性性へのコンプレックスが非常に強く、時に恐怖ですらあったことも挙げられます。

しかし、昨夏〜現在にかけて起こった身体感覚/身体性/身体知の劇的変容は、私が “女” の身体に生まれたことの意義を改めて再考させ、同時にあらゆる価値観の再構築を誘発しました。

社会的な性意識はともかく、生物的・身体的・精神的な女性性を知ってしまうと もう後には戻れないというか『知りたくなかったことを知ってしまった故の恐怖を打破せねばならない』状態に陥ります。その方法を模索していたときに出会ったのがUPHYCAだったのです。

その他にも参入を決意した理由は複数ありますが、基本的にはこんな感じ。

 

成長には、ときに恐怖へ飛び込むことも必要です。恐怖を勇気に変え世界を動かす。そのために絶やしてはならない根源的なエネルギー=火を憶い出し、熱を捉え、可憐に扱う修行が今ここにあります。

火の巫女として世界に美しいものを提供できたらと思います。

 

今後とも 現代魔術家・牟礼菊乃、火の巫女・玲瓏を どうぞ宜しくお願い致します。

 

燈之 陰尓蚊蛾欲布 虚蝉之 妹蛾咲状思 面影尓所見

ともしびの 陰にかがよふ 虚蝉の 妹が笑まいし 面影に見ゆ

Facebookもやめます

Facebookもアカウントを停止します。

たこれにより、DEVIL's PLAYのOfficial Facebookページも停止となります。応援してくださった皆様、誠にありがとうございました。

ご不便をおかけし大変申し訳御座いません。よろしくお願い致します。

Messengerで連絡を取っている方にはご案内をお送りしておりますが、今後の牟礼菊乃へのご連絡は携帯電話番号・Gmail・LINE・個人用Skype、DEVIL's PLAYへのご連絡はHPメールフォーム・Twitter DM・セッション用Skype となります。

 

kikuno-mure.hatenablog.com

 

Facebookをもやめた3つの理由 → 不健康・価値の体系・プレゼンス

 

①不健康

人間の脳は無限の可能性を秘めていますが、一生のうちに実際使うのは全体の数十%だそうです。肉体的・精神的成長につれて多少の拡張がなされていくとはいえ、顕在意識のキャパシティは常に “今ここのもの” が精一杯であり、それに見合った機能運転がなされてこそ正常=健康 といえます。さらに言えば、正常運転のためには 行き届いた清掃と歯車がぶつからないようにするための余白が必要 です。

6月に TwitterinstagramTumblr をやめた際は それで充分だったのですが、Facebook一本になったら、そこに辞めた3つ分のウェイトが偏ってしまったのか、実はFacebookこそが一番のウェイトだったのか、どんどんつらくなってきました。

更新することも「ブログ(これ)書いた」程度。SNSを利用してのSNS誘導って経路としてむしろ複雑化していないか? 明快さが足りないな? という不明瞭感も否めず。

DEVIL's PLAYについても、開始1か月で見えてきた方向性として、今のDEVIL's PLAYに必要以上の広告はいらないと判断しました。まだまだ進化の過程にある今であれば、別にFacebokページがなくなったとて大してダメージはないのではないか? Facebookだけが唯一の発信ツールがないし、Twitterbotに任せきりだけど一応あるし、そもそも大元のWebサイトを怠らずやっているならば、今はそれで充分ではないか? と。これはもちろん商業性やブランディング、DEVIL's PLAYを訪れてくださった人々を見て慎重に判断した結果です。

時系列も表示される人もバラバラ、関心が湧かない投稿と広告ばかりが羅列し、美しさを感じません。これならまだ構造そのものが簡易的なTwitterの方がいいとさえ思えます。あとこれは完全にDisですが「共通の友達」「知り合いかも」「誰が何にいいねしました」「何時間前にオンライン」のシステムがどうしても好きになれませんでした。

他にも言葉の重みとか、リソースの無駄遣いとか、第三の眼が眼精疲労とか色々。実は私は小さい頃から第三の眼をガン開きしちゃう癖があるんです。あれもちゃんと眼精疲労起こすんですよ。普通の眼球より厄介ですけど。

ここまで 現代社会でメジャーとなっている人間交流ツールに辟易してしまうと いつしか人自体も嫌いになってしまいそうで....... というかなりかけつつある......

とにかく本質的に楽しくなくなったわけです。疲れた、というのが本音です。

 

②価値の体系

8月末からとある地元の立ち飲み屋に通いだしました。きっかけはひょんなことだったのですが、自分が思ってもみなかったような成長や出会いがたくさんあり、今やすっかりレギュラー(?)メンバー。

基本的に皆20歳以上年上で なかにはもうお仕事を引退されている方もいらっしゃいます。美術家、デザイナー、写真家、舞台役者、文筆業、日本が一番元気だった頃を肌身で知るトップクラスの文化人たちが集います。だからといって何も肩肘を張る必要はなく、暖簾をくぐったら皆平等。その根底にあるものは誠意と敬意と人間性です。私はきっとこれに育ててもらったのでしょう。

そんな素敵な人たちと最低週1回、多い時には週4回もお酒を飲んでいればそりゃ人間も変わるわけです。どう変わったかというと、自分で言うのもなんですが 自分に自信が持てました。そのおかげでDEVIL's PLAYが生まれたと言っても過言ではありません。そして何よりコミュ症が完治しました。というかそもそも私はコミュ症ではなかったらしく、自分に自信を持てない私が自分をコミュ症だと決めつけていただけみたいです。まぁそれはそれでいいんじゃねって思うんですけど。

本を捨てたことで世界の価値が変わり、人と交わることで自分の価値が変わりました。

 

③プレゼンス

世界の価値と自分の価値が大きく変わった今、世界と私を結ぶものを改めて考えみると、どう頑張ってもFacebookは絶対必要とは判断できませんでした。

まず自分のキャラクター(商業っぽく言うところのブランディング)にSNSはいらないし合わない。単純なアイドル性とかいらない。全体的に「会いに来たい人だけが会いに来る ちょっとよく分かんない人」くらいがちょうど良い。本来 私ってそういう人でしたし。

そして何より、写真も絵も踊りも文章表現も好きですが、それをいちいち半永久的な電子世界に残し、有り余る人の輪のなかで共有し、真意の捉えられない賛美を確かめ、可視的に記憶がアーカイブされていくことに意味が感じられなくなりました

そもそも記憶って忘れていくもので、忘れていくからこそ忘れたくないことが残るようにできています。それでも人は時に忘れたくないことまで忘れてしまうから、別の身体/物体に留めておこうと、人をつくり、言葉をつくり、文字をつくり、あるいは継承される技術のなかに 残す努力をしてきました。

本来『残す』という行為には 莫大なリソースが割かれます。しかし今はどうでしょう、指先ひとつで簡単に文字も写真も残せるようになりました。そのせいか世の中には、モラルの欠如、迷走、いっときの感情で書き綴った言葉による人間関係の不和が溢れかえっています。心当たりはありませんか? 極端な表現ですが、吐き捨てになったアーカイブを美しいと言えるでしょうか

 

最後に一つ。世の中SNSが消えたって人のご縁は続きます

もちろんこのブログも続きます。

今後とも牟礼菊乃をどうぞよろしくお願い致します。

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沈黙

文学を学びつつ 人にものを伝える仕事をしていると、時々 言語そのものはもちろん言語を持ってしまった人間の価値すら分からなくなってくる。身体にも精神にも疑問ばかりが浮かび、メルロ=ポンティに問えば、生命に立ち還れと諭された。

身体にも精神にも偏らない、生命という概念。

唯美的とすら思う。

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そこを起点に色々考えると、いくら身体や精神の醜さを厭うたとて、誰かと話して嬉しくなったり、人から頂いた本を読んで楽しくなったりすると “生命” の震える感じを覚える。

これこそが、精神と肉体を結ぶ “言語” をやめられない一番の理由かもしれない。

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神々は 叡智を以てして生命の美を極めたがゆえに、固有の身体や精神、そしてその個々を結ぶ言語すらも必要とせず、ただ尊くそこに在れるのだろう。

未だ “固有” だの “個性” だのに捉われる人間が人間のなかに見出す尊さなんてこれっぽちのものだ。しかしそのこれっぽちが大いに生命を震わせ、精神の悦びとなり、身体は神を見るべく天を仰ぐのだから、まぁ人間とはつくづく可哀らしい生き物である。

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どんなに喧しく騒々しい一日を送ろうが、祈るように眠るまどろみの中で、ほんの少しでも唯美に極んだ神らしき光を覗けたのなら、きっと私たちは充分に幸せだ。

久しぶりに下北沢のピアッシングスタジオに顔を出して、15時から閉店まで長居していた。様々なお客さんがやってきては風穴を開けていたが、痛がりもせず、騒ぎもせず、つまらないなと思ってしまった。人間の成長過程において痛みを表現するのをやめる時期とは一体いつなのだろうか。

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蛇にピアス

麻酔、鎮痛剤、システマ、ヨーガ。痛みは様々な方法で逃すことができる。しかし、ある程度の痛みは感じなくてはならないし、ある種のものはむしろ感じたいとさえ思う。健康な身体、あるいは生存本能を一定に維持する機能として少なからず痛覚は必要だろう。多くの病は痛みによって気付く。だからといって過敏になりすぎるのもよくないが、五感の一つとしてきちんと大切にしなければ、己の身体そのものも大切にできない。

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今年1月ネイプを開けたときの私。
ピアッシングに伴う痛みは人間を逸脱へ導く。太古より数多の民族が身体改造儀礼性を見出したように現代のボディピアッシングにも何かしらの力があるのだとすれば、その真髄に触れる唯一の術は鋭い痛みを受け入れることだ。

瞼裏の光

何かの際に手を組んで「神様」と祈るとき、心の片隅で「神様ってだれだろう」と思う感覚は宗教的体験をしたことがある人にはよく分かるかもしれない。

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幼い頃に朝礼拝のなかで見出した祈りの本質とメカニズムをまとめると、

①祈り=自分との対話を「神」という存在を目の前に置くことによってスムーズに行う

②神への祈り=整頓された自分との対話/暗示

③理想像はただ一つ→ 一神教
 様々な自分を愛せ→ 多神教

6歳にしてはませすぎて自分でも気持ち悪いが今でもこの理論はあまり変わっておらず、むしろ①は年を重ねるごとに強化されている。

人は祈りを通して自らに眼差しを向ける。目を閉じて何かを想う空間、想っていたことが段々とやわらかく溶け出し、空間と皮膚の境目が曖昧になり神と一体となる。神との一体感を強めるために、人はときに天を仰いで舞ったり、他者と声を揃えたり、食をやめて感覚を尖らせる。

「今日も私達をここまでお導き下さりありがとうございます」「私達は貴方によって生かされています」

・少年「試験が合格しますように」
 →試験が合格するために自分を仕向けることがスムーズにいきますように
・母 「息子の試験が合格しますように」
 →息子が試験が合格するために自分を仕向けることができますように(最適な手伝い方をし
  てあげるべく自分を仕向けられますように)

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ある時代、偶然同時多発的に自分の中の"神らしき誰か"に気付いた人々が、日常の情報共有の中でふとその存在を認識し目覚め神と定め祈り始めた。その中で特にカリスマ性のあった者が物語った神が人々を目覚めさせ傘下につき、宗教が生まれた。多分。

神は普遍、物質や偶像で表せる存在ではない。預言者はあくまで神と人を繋ぐ “人” であり、預言者と共に神への信仰を深めてゆくイスラームキリスト教などとは反対に、大量の祠や仏像と触れ合い(洗う、撫でるなど)また太古から太子・祖師信仰が得意な日本の信仰観は非常に物質的だ。付喪神、身代わり人形やお守りなんかが良い例で、物質に心を見出し、得たり手放したりすることで信仰を表す。神がそこにいる、という確信を得るプロセスの違いはその国の人のアイデンティティを顕著に物語る。

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何にしろ、だ。

この世には、知性や言語で語れない信もある。それこそが最も美しい真の信かもしれない。

言葉と妙なものを封印せよ2

『言語を持ちそれによって他者と関わり社会を形成したホモサピエンス=人間』だとするならば、純粋に言語を持たないホモサピエンスは何なのか。例えば赤ちゃん。感情を伝えるべくただ湧き上がってきた身体表現をやっている……寂しくて泣いていたら、ママがそれを見て「あら〜泣いちゃったの〜」と言うから「ああワイが今やっていることは泣くって言うんや」と知り、ここで初めて身体行為と言語が一致+認識するわけで、仮にこういう過程を全く通らず身体だけが成長したとしたら、そいつは人間と言えるのか。
もし舞踏が本当に「言語を逆手に取って身体に立ち返る」ものなのだとしたら、舞踏は幼児退行・胎内回帰にも近い。そしていつかは「何かしらを表現したい」という欲求さえも忘れ、人間としての意識さえも手放し、無に還元されていくのだろうか。
そうだとしたら、言語は「何かを定義したり意味を伝えるツール=縛るもの」という本来の存在意義とは全く逆、つまり「定義や意味を手放すためのツール=解放するもの」にもなり得る。これを可能にするのが舞踏であり舞踏譜である。
また舞踏はさらにここに日本人のアイデンティティや日本人独自の身体性を追求したので、一層我々の根源的な精神に訴えかけるのかもしれない。

言葉と妙なものを封印せよ

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言語を持たない子供は身体表現(意味を持たない声を上げる、叩く、泣くなど)で意志を伝達し、言語はあくまで他者からの付与で蓄積されて行く。という一般的な表現方法の取得過程の真逆
→言語を先に伝達し、その言語に身体表現を付与する
土方舞踏譜は言語には言語で返すという従来の伝達方法から逸脱するために、わざと言語に「返しづらさ=どうとでも捉えられる・正確性のなさ」をもたせ、言語表現以外でしか返せないようにした?
人間が持ってしまった言語/言語を持ってしまった人間、が作り出すあらゆる社会への反乱
使っても使わなくても伝達に確信のない「言語」を抜きにした人間本来の純粋で根源的な表現をあえて言語から想起する試み。逆説的に作為的。
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人が言語を用いることがいかにリスキーかというを思い知らされる。しかし人間は分かり合いたいと想うことをやめられず、そしてそのために言語を使い、こうして言葉数だけが増えてゆく。

 

ゼミ発表用のレジュメ下書き。