沈黙

文学を学びつつ 人にものを伝える仕事をしていると、時々 言語そのものはもちろん言語を持ってしまった人間の価値すら分からなくなってくる。身体にも精神にも疑問ばかりが浮かび、メルロ=ポンティに問えば、生命に立ち還れと諭された。

身体にも精神にも偏らない、生命という概念。

唯美的とすら思う。

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そこを起点に色々考えると、いくら身体や精神の醜さを厭うたとて、誰かと話して嬉しくなったり、人から頂いた本を読んで楽しくなったりすると “生命” の震える感じを覚える。

これこそが、精神と肉体を結ぶ “言語” をやめられない一番の理由かもしれない。

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神々は 叡智を以てして生命の美を極めたがゆえに、固有の身体や精神、そしてその個々を結ぶ言語すらも必要とせず、ただ尊くそこに在れるのだろう。

未だ “固有” だの “個性” だのに捉われる人間が人間のなかに見出す尊さなんてこれっぽちのものだ。しかしそのこれっぽちが大いに生命を震わせ、精神の悦びとなり、身体は神を見るべく天を仰ぐのだから、まぁ人間とはつくづく可哀らしい生き物である。

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どんなに喧しく騒々しい一日を送ろうが、祈るように眠るまどろみの中で、ほんの少しでも唯美に極んだ神らしき光を覗けたのなら、きっと私たちは充分に幸せだ。

久しぶりに下北沢のピアッシングスタジオに顔を出して、15時から閉店まで長居していた。様々なお客さんがやってきては風穴を開けていたが、痛がりもせず、騒ぎもせず、つまらないなと思ってしまった。人間の成長過程において痛みを表現するのをやめる時期とは一体いつなのだろうか。

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蛇にピアス

麻酔、鎮痛剤、システマ、ヨーガ。痛みは様々な方法で逃すことができる。しかし、ある程度の痛みは感じなくてはならないし、ある種のものはむしろ感じたいとさえ思う。健康な身体、あるいは生存本能を一定に維持する機能として少なからず痛覚は必要だろう。多くの病は痛みによって気付く。だからといって過敏になりすぎるのもよくないが、五感の一つとしてきちんと大切にしなければ、己の身体そのものも大切にできない。

f:id:kikuno_mure:20170930201706j:imageピアッシングに伴う痛みは人間を逸脱へ導く。太古より数多の民族が身体改造儀礼性を見出したように現代のボディピアッシングにも何かしらの力があるのだとすれば、その真髄に触れる唯一の術は鋭い痛みを受け入れることだ。

瞼裏の光

何かの際に手を組んで「神様」と祈るとき、心の片隅で「神様ってだれだろう」と思う感覚は宗教的体験をしたことがある人にはよく分かるかもしれない。

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幼い頃に朝礼拝のなかで見出した祈りの本質とメカニズムをまとめると、

①祈り=自分との対話を「神」という存在を目の前に置くことによってスムーズに行う

②神への祈り=整頓された自分との対話/暗示

③理想像はただ一つ→ 一神教
 様々な自分を愛せ→ 多神教

6歳にしてはませすぎて自分でも気持ち悪いが今でもこの理論はあまり変わっておらず、むしろ①は年を重ねるごとに強化されている。

人は祈りを通して自らに眼差しを向ける。目を閉じて何かを想う空間、想っていたことが段々とやわらかく溶け出し、空間と皮膚の境目が曖昧になり神と一体となる。神との一体感を強めるために、人はときに天を仰いで舞ったり、他者と声を揃えたり、食をやめて感覚を尖らせる。

「今日も私達をここまでお導き下さりありがとうございます」「私達は貴方によって生かされています」

・少年「試験が合格しますように」
 →試験が合格するために自分を仕向けることがスムーズにいきますように
・母 「息子の試験が合格しますように」
 →息子が試験が合格するために自分を仕向けることができますように(最適な手伝い方をし
  てあげるべく自分を仕向けられますように)

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ある時代、偶然同時多発的に自分の中の"神らしき誰か"に気付いた人々が、日常の情報共有の中でふとその存在を認識し目覚め神と定め祈り始めた。その中で特にカリスマ性のあった者が物語った神が人々を目覚めさせ傘下につき、宗教が生まれた。多分。

神は普遍、物質や偶像で表せる存在ではない。預言者はあくまで神と人を繋ぐ “人” であり、預言者と共に神への信仰を深めてゆくイスラームキリスト教などとは反対に、大量の祠や仏像と触れ合い(洗う、撫でるなど)また太古から太子・祖師信仰が得意な日本の信仰観は非常に物質的だ。付喪神、身代わり人形やお守りなんかが良い例で、物質に心を見出し、得たり手放したりすることで信仰を表す。神がそこにいる、という確信を得るプロセスの違いはその国の人のアイデンティティを顕著に物語る。

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何にしろ、だ。

この世には、知性や言語で語れない信もある。それこそが最も美しい真の信かもしれない。

言葉と妙なものを封印せよ2

『言語を持ちそれによって他者と関わり社会を形成したホモサピエンス=人間』だとするならば、純粋に言語を持たないホモサピエンスは何なのか。例えば赤ちゃん。感情を伝えるべくただ湧き上がってきた身体表現をやっている……寂しくて泣いていたら、ママがそれを見て「あら〜泣いちゃったの〜」と言うから「ああワイが今やっていることは泣くって言うんや」と知り、ここで初めて身体行為と言語が一致+認識するわけで、仮にこういう過程を全く通らず身体だけが成長したとしたら、そいつは人間と言えるのか。
もし舞踏が本当に「言語を逆手に取って身体に立ち返る」ものなのだとしたら、舞踏は幼児退行・胎内回帰にも近い。そしていつかは「何かしらを表現したい」という欲求さえも忘れ、人間としての意識さえも手放し、無に還元されていくのだろうか。
そうだとしたら、言語は「何かを定義したり意味を伝えるツール=縛るもの」という本来の存在意義とは全く逆、つまり「定義や意味を手放すためのツール=解放するもの」にもなり得る。これを可能にするのが舞踏であり舞踏譜である。
また舞踏はさらにここに日本人のアイデンティティや日本人独自の身体性を追求したので、一層我々の根源的な精神に訴えかけるのかもしれない。

言葉と妙なものを封印せよ

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言語を持たない子供は身体表現(意味を持たない声を上げる、叩く、泣くなど)で意志を伝達し、言語はあくまで他者からの付与で蓄積されて行く。という一般的な表現方法の取得過程の真逆
→言語を先に伝達し、その言語に身体表現を付与する
土方舞踏譜は言語には言語で返すという従来の伝達方法から逸脱するために、わざと言語に「返しづらさ=どうとでも捉えられる・正確性のなさ」をもたせ、言語表現以外でしか返せないようにした?
人間が持ってしまった言語/言語を持ってしまった人間、が作り出すあらゆる社会への反乱
使っても使わなくても伝達に確信のない「言語」を抜きにした人間本来の純粋で根源的な表現をあえて言語から想起する試み。逆説的に作為的。
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人が言語を用いることがいかにリスキーかというを思い知らされる。しかし人間は分かり合いたいと想うことをやめられず、そしてそのために言語を使い、こうして言葉数だけが増えてゆく。

 

ゼミ発表用のレジュメ下書き。

 

夢のようなこの世

舞台床に埋め込まれた水族館さながらの巨大水槽は、役者が現れては消える空気のない空間だ。圧倒的な仕掛けが施された舞台と最前列の間隔は非常に狭く、絶対濡れると分かっているのにわざとそこに座る。濡れる体験を求めている人が大半だと思う。しかしそんな彼らがしぶきを避けようと身構える瞬間は、劇場全体に不思議な期待感を引き起こす。瞬間が生まれる瞬間を意図した日々未完成の芝居。http://kikuno-mure.hatenablog.com/entry/2017/09/17/004829

ドヤ街に聳え立つ “るなぱあく” には既に溺死量の水が隠されているというのに、また雨が降り注いで、どちらが芝居仕掛けなのか分からない。昨日とまた台詞が違った。吹き出す水が数倍増えていたような。限界まですし詰めにされた客たちは肩を縮めて目を凝らす。人肌と芝居で熱くなり、雨と水で冷え、彼らの身体もまた役者のように大忙しだろう。

楽日のカーテンコールで、劇場スタッフにもライトが当たった。夢のようなこの世にいた私はつい我は役者と勘違いして満面の笑みを浮かべてしまった。この2日間何度も頭をよぎった舞台を羨む感情も、この世のような夢が見せた芝居の一部なのかもしれない。

“間”考

同じ型を繰り返しながら群衆で前進する。その間、他人と同じ方向に花を咲かせてはならず、また花を眼差してはならない。他人の隙間を縫いながら間を埋めあるいは間を作り、眼差しの間にも気を配ると、そこには野花のように呼吸する花束が生まれる。すべての間を探り、合わせ、整える。

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舞踏合宿中、山海塾舞踏手による型のデモンストレーション。吐息と花。

舞台床に埋め込まれた水族館さながらの巨大水槽は、役者が現れては消える空気のない空間だ。圧倒的な仕掛けが施された舞台と最前列の間隔は非常に狭く、絶対濡れると分かっているのにわざとそこに座る。濡れる体験を求めている人が大半だと思う。しかしそんな彼らがしぶきを避けようと身構える瞬間は、劇場全体に不思議な期待感を引き起こす。瞬間が生まれる瞬間を意図した日々未完成の芝居。

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横浜トリエンナーレ2017水族館劇場公演会場。舞台上の鯉が泳ぐ床下水槽は圧巻。

魔術の最終到達地点は、今ここにあるすべての間が完全に調和する瞬間かもしれない。宇宙ー意識ー事実・事象ー感情や空想ー意志のすべてにおいて均整が取れた状態になると、はじめて意志が正しい方向に働き、願いの成就につながる。占いや儀式はこの内外の域を超えたあらゆるものの間の調整をするための行為であって、決して端的に願望を叶えられる便利道具ではない。音の魔術師・ザッパの言う、いかがわしくても他人を傷付けさえしなければ良いという考え方も、聞こえは勝手極まりないが、これこそが自分と何か(誰か)の間を守る最大のキーであることに間違いないだろう。魔術はあらゆる“貴方”と私の間に起こる。貴方は宇宙であり物質、ときに貴方自身だ。

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アレイスター・クロウリーによる一筆書六芒星。能動性と受動性、有と無の調和。